山伏修行の道、深山縫う90キロ
大峯奥駈道は、奈良の吉野山と和歌山の熊野本宮大社を結ぶ修験者の修行道として開かれた。
いまも、山伏装束に身なりを整えた人々が法螺貝を吹き、勤行をしながら歩く道である。
標高1000bから1900bにもなる山が次々に連なる紀伊山地の尾根筋をたどる道だけで、約90キロ。上り下りが厳しく、毎日10時間前後歩いて7日がかりのコースである。
道中に民家はない。「熊野三山」、つまり熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を巡る道をあわせると、全長は約200キロにもなる。
途中、靡(なびき)と呼ばれる行場が75カ所。山の頂上や大きな岩、巨木や昔の宿の跡など神々が宿るとされる場所である。そこで行者たちは、必ず勤行する。法螺貝を吹き、魔を払う九字を切ったあと、全員で般若心経や真言を唱えるのである。
本宮から吉野に向かうのを順峯(じゅんぶ)、吉野から熊野に歩くのを逆峯(ぎゃくぶ)という。太古ノ辻から南の道が薮に閉ざされ、通行不能だった時代は、逆峯で北半分を歩き、奈良県下北山村の前鬼に下るコースが一般的であった。
奥駈道のふもとの方は、スギやヒノキの人工林が多いが、尾根筋はほとんど天然林。自然環境を守るため、古くから道の両側8町(約900b)の樹木の伐採が禁止されていたからだという。
植生は、標高の低い所がツバキやカシなどの常緑広葉樹、少し上るとブナやミズナラなどの落葉広葉樹、さらに標高が高くなるとモミやツガ、トウヒやシラビソの針葉樹となる。
5月から7月ごろにかけて、シャクナゲやアケボノツツジ、オオヤマレンゲなどが美しい花を咲かせる。
「世界遺産」後押し 新宮山彦ぐるーぷ
「大峯奥駈道」守り20年
奥駈道は、奈良県の吉野から和歌山県の熊野にかけて、紀伊半島の尾根筋を南北に貫いている。
先日、ユネスコの世界遺産に登録され、脚光を浴びているが、ほんの20年前まで、道の南半分約45qは深い薮に閉ざされいた。クマザサを刈って道を開き、山小屋を建設してよみがえらせたのが和歌山県新宮市の「新宮山彦ぐるーぷ」である。20年間に延べ四千人が山に入り、道や山小屋の維持・管理をしてきた。活動の一端を紹介する。
取材は、重さ10キロの砂利を詰めた袋を背負うことから始まった。階段状に続く急な登山道。取材用具や着替えを入れたリユックとあわせると、重さは20キロを超えた。
歩き始めると、汗が噴き出す。目的地は奈良県下北山村と十津川村の境にある行仙岳(1226m)にある山小屋。「新宮山彦ぐるーぷ」の人たちが手作りで建てた小屋だ。1時間近く歩いて山小屋に着いたときには、汗びっしょり。そこで荷物を下ろし、今度は木のくいを背負い、約40分かけて、道普請の現場に向かう。これがまた急な登りと下りの難儀な道。途中でマムシにも遭遇した。
翌朝も作業は続く。夜明けとともに、代表の玉岡憲明さん(78)から声がかかる。コーヒーを飲んで目を覚まし、食事当番以外は全員出発。前日の登山口まで下り、そこから体力に応じて10キロ入りの砂袋を二つ三つと担ぎ上げる。往復1時間半。ようやく朝食にありつく。山のさわやかな空気を吸い、一汗かいた後だから格別うまい。一息入れた後は前日と同様、くいと横木を背負って現場に向かう。
作業は大峯奥駈道の長い急坂に取り付けた木の階段の補修だ。暑い。すぐに汗だくになる。でも、彼らはこんな作業を20年間も続けてきたのだ。そう思うと、荷が重いとか、作業が厳しいとかは、口にもできない。ブヨに刺され、ヒルに血を吸われても、騒いだら笑われる。
新宮市とその周辺の登山愛好者でつくるこのグループは結成30年。現在のメンバーは約50人。20年前からは、太古ノ辻から熊野本宮大社まで、大峯奥駈道の南半分(南奥駈道)、ざつと45キロの整備に取り組んでいる。この道の再興を目指しながら、道半ばで亡くなった前田勇一行者の遺志を継いだ活動だ。
ササ刈り・山小屋建設・すべて手弁当
最初は、背丈以上もあるクマザサの刈り取りから始めた。行者の「千日回峰行」からとって名付けた「千日刈峰行」。幅1bの道を開くには、両側からササが倒れてくる分見越して、5b幅で刈り取らなければならない。重労働である。
ブヨやダニにも悩まされる。ウルシにもかぶれることもある。それでもひるまず、「体験を通してモノを考える」「南奥道を再興してこそ熊野に光りが当たる」とボランテイアで取り組んだ。
弁当から刈払機の燃料代、替え刃の購入費まで、すべて自分持ち。往復する時間が惜しいから、大抵はテントを張り、泊まり込みで作業を続けた。
足かけ3年、延べ315日の作業で、ようやく南奥駈道は通行できるようになった。だが、元来が行者以外に通る人もない道。放置するとまた元のやぶに戻ってしまう。
引き続き2巡目、3巡目の刈峰行を続けた。
これが一段落すると、今度は山小屋の建設。せっかく道を開いても、宿泊施設がないと、利用者が限られからだ。行仙岳の山頂近くに用地を定め、2千万円の資金集めから敷地造成まで、すべてを彼らが受け持った。資材は空輸し、大工仕事は本職に依頼したが、下働きはボランティアの仕事。出動日数は延べ985日にもなる。
さらに、平治宿山小屋の建設、行仙宿山小屋の管理棟の建設、水場への道の整備など、毎年新たな目標を立て、休む間もなく工事を続けた。「これじゃ、山彦ぐるーぷじゃなくて山彦建設だよ」という冗談が冗談でなくなった。「決して無理をしないで下さい」といいながら、次々と作業の注文を出す玉岡代表を指して、「玉岡は無理をするなと無理をさせ」という川柳まで生れた。
熊野の魅力 伝えるお手伝いになれば
それでも「修行者の安全のために、熊野の魅力を知ってもらうために」と、会員は毎週のように山に登り作業を続けた。
奥駈修行の団体からサポートの依頼があれば、前日から小屋に泊まり、寝具を干し、水場から水を運んで準備をした。食料もすべて背負って運びあげ、当日は温かい食事を提供した。
「汗を流すことが私たちの役割。奥駈道が利用しやすくなれば、より多くの人に熊野の森の持つ魅力や意味を実感してもらえる。行者も行者の役割をまっとうして、熊野の魅力を高めてほしい」と玉岡代表。
16年前に熊野修験を再興し、毎年、多くの人を引率して奥駈修行をしている高木亮英さん(和歌山県・青岸渡寺副住職)は、クループの活動に、こんな言葉で感謝の気持を表している。
「道普請から山小屋の建設、食事面のサポートまで、本当にお世話になっている。大峯奥駈道の全域が世界遺産に指定されたのも、山彦ぐるーぷの人たちが道を切り開いてくれたからこそ。彼らこそ世界遺産の本当の守り手です」
主なボランティア作業出勤日数(延べ日数、1984年から2004年5月まで)
・第1巡目の刈峰行 ・・・・・・315日
・第2巡目の刈峰行 ・・・・・・174日
・第3巡目の刈峰行 ・・・・・・275日
・行仙宿山小屋建築 ・・・・・・985日
・平治宿山小屋建築 ・・・・・・391日
・行仙宿周辺整備 ・・・・・・284日
・行仙宿水場道整備 ・・・・・・331日
・行仙宿補給路新設補修 ・・・・ 99日
・深仙灌頂堂・避難小屋補修 ・・229日
・行仙宿管理棟建築 ・・・・・682日
「注」朝日新聞2004年7月25日に掲載。編集委員;石井 晃氏が取材・執筆。
この新聞記事が「2004年のシチズン・オブ・ザ、イヤー賞」選考を後押し。
石井 晃氏は、現在和歌山県田辺市の「紀伊民報」の編集長。
この文章は、朝日新聞の記事を転記。(文責川島)