大峯奥駈道の魅力を後世に伝える

 
 多くの人に熊野修験道
大峯南奥駈道を往来しその自然の魅力を知ってもらうために、薮で覆われた道を再興。
山小屋の建設・管理や標識などの補修活動に取り組む 新宮山彦ぐるーぷ


昨年の7月大峯奥駈道を含む熊野古道がユネスコの世界遺産に登録された。

大峯奥駈道とは、紀伊山地の最北部にある奈良県吉野から和歌山県熊野にかけての、古来から山野で修行する修験道として知られる。その道のり、およそ90q。そのうち熊野の入口である熊野本宮大社から45qほど北の「太古ノ辻」までを大峯南奥駈道(南奥駈道)というのだが、つい20年前までは、この区間は大人の男性の背丈以上もある薮に覆われていた。そのため人の往来はおろか、足を踏み入れることもできなかった。

それほど荒れ果てていた南奥駈道をよみがえらせたのが「新宮山彦ぐるーぷ」。和歌山、奈良、三重などの登山愛好家が、今からちょうど30年前の昭和49年(1974)に結成し、昭和59年から南奥駈道の再興に向けての活動を始めた。今回の世界遺産登録は、彼らの活動があってこそだといえる。


 南奥駈道の再興は活動の継続と忍耐の賜物


南奥駈道の再興の第一歩は、まず頭を覆うほどのクマザサやスズタケの刈り拓きから始まった。山を登り下りするだけで半日以上かかってしまうため、食料とテントを持参し泊まり込みで作業に精を出すことも間々あった。また、資金難になることもあったため、そのつどメンバーから参加費を募って作業にあたった。

そして3年後、延べ315日の作業で、ようやく念願の南奥駈道の再興を果たした。しかし、もともと行者しか通ることのない道。放置するとまた薮に戻ってしまうため、2巡、3巡と刈り取りを続けた。ところが玉置神社から持経宿山小屋まで歩いて14時間もかかることから、その中間地点に山小屋がないと歩けないという声が上がった。

そこで、せっかく整備をしても歩いてくれる人がいなければ元も子もないと、山小屋の建設を計画。

ぐるーぷの活動に賛同する多くの人から約1800万円もの寄付を得て、これを資金に山小屋の建設に着手。資材一切はヘリで空輸し、敷地の造成と山小屋の土台づくりに取り掛かったのだが、平地ではない所に小屋を建てるので、ほとんどのメンバーがきつかったと強調するほどの重労働となった。しかし、大工工事は本職に任せ、メンバーは下仕事に徹した。そうして山小屋の建設に取り掛かってから、およそ3年後の平成2年6月(1990)、ぐるーぷ結成16年目に行仙宿山小屋の竣工にこぎ着けることが出来たのだ。


 補修作業はあくまで最小限にとどめて行なう


山男・山女の朝は早い。朝6時30分に新宮市から車で出発して2時間後、行仙宿につながる登山口に到着した時には、すでに奈良のメンバーは到着していた。

車を降りるとすぐさまザックと山小屋周辺整備に使う砂利の入った袋(約10s)を1袋、2袋背負い「さあ、行こうか」という掛け声で登り始めた。急勾配でくねっている難儀な道を息を切らすことなく、およそ40分で行仙宿に到着。

休憩もほとほどにして、今度は小屋から10分ほど下った所にある水場に、10ℓ入る空のポリタンクを1つ2つ持って向かう。下っていると時折後ろを振り向いては、「足元をちゃんと見て下るように」と声を掛けてくれるのだが、この道は先ほど登ってきた道よりもずっと傾斜がきつく、しっかり足元を見て下らないと滑り落ちてしまうほどだ。それでも下りはまだいい。

登りはポリタンク半分ほどの水を入れ担いで登るだけで精一杯。足腰に水の重みがズッシリとかかり、なかなか前に進めない。それでも所々に手すりが取り付けられているから大いに助かる。

水場につながるこの道も山彦ぐるーぷが延べ331日もかけて整備した。

昼からは彼らの腕の見せどころともいうべき道の補修作業だ。もともと登山愛好家の集まりであつたが、「最近は山彦ぐるーぷじゃなくて山彦建設みたいだよ」と話すように、ほとんど毎週山に登って補修作業をしているという。

今回は3チームに分かれて、来た道とは違う道の補修を始めた。まず、道の外側に長い杭を打ち込み、その添え木に桧丸太を差し込む。そしてその内側に土や石を詰めていくのだが、つまずきケガする恐れがある路上の切り株や木の根は、掘り起こして土を平らにする。かといってむやみやたらに土を掘り起こしたりなどはしない。といのも、本来は自然のままにしておけば地滑りなどが起こりにくいからだ。できるだけ最小限の補修にとどめ、「歩行者に少しでも安心して山を楽しんでほしい」と作業に励む。

10mほどの距離を補修するのに4人で1時間。みんな額からしたたるほどの汗をかいてはいるものの、すがすがしい表情をしている。「あんまり気負って作業すると長続きしないよ。逆に気負わないからこそ、ここまでやってこられたのだと思うよ」と山彦ぐるーぷの山上皓一郎さんはしみじみ話す。また根木俊明さんは「自分はこれだけの仕事したのに、あの人はあれだけの仕事しかしていない、というようなことは一切誰も言わない。人のことはとやかく言わない。つまり、それぞれができる範囲のことをするだけだよ」とさらりと話す。


 大峯奥駈道を往来してもらうことが彼らの活動を後押し


昨夏、大峯奥駈道が世界遺産に登録されて入山者か増えたことに対してメンバーは、異口同音に嬉しいと話す。しかし、古来から大峯奥駈道は修験道で、今でも険難な山道であるため、一般登山者は遭難することが懸念される。

その対策として、標識も設置していたのだが「静かな大峯を愛した登山者や修行者の中には、大峯が俗化してしまうのではないかと心配している者もいるのです。ですから、本来は標識を当てにしないで、山を歩けるようになって欲しいのです」と話す。

それでも、ガイドブックで山彦ぐるーぷの存在を知り、今回の作業に同行したいという京都大学山岳部の山名康晴さんのように、「僕は吉野から熊野まで数回に分けて歩いたことがあるのですが、山彦ぐるーぷさんが道の整備・補修や山小屋の管理などをしてくれたお陰ですごく助かりました」という感謝の念を抱く人たちは数多くいるのである。

大峯奥駈道の魅力をたくさんの人に知ってもらうために、彼らはこれからもマイペースで活動を続けていくという。


「注」三井グラフ138 地球に生きるNo47
(2005年1月発行)に掲載された記事を一部修正転記。(文責川島)

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