千日刈峰行とその展開      玉岡 憲明

 

大峰山脈とは、北は吉野から南は熊野本宮に至る長大な山並を言う。古来一三〇〇年の昔、ときの奈良仏教の堕落を憂えて、新しい山岳宗教、修験道を開いた役ノ小角(エンノオズノ)は生地葛城を振出しに、この大峰を修験道の根本道場と定めて以来、この宗教は燎原の火の如く全国に拡大していったのである。

私は門外漢であるため、修験道を語る資格はないけれども、山は神や仏の棲む聖地とされ、数知れない行者は山に籠り、きびしい苦修練行を積んで神仏に近づく努力(悟りを求める)をし、衆生を済度(救済)して来たのである。そしてその極致は捨身にあるとされ、身を捨てて尚、永遠に生きるということであった。

この一三〇〇年の長い歳月に盛衰興亡を繰り返しながらも、脈々と修験道は享け継がれて来たのである。明治になって神仏分離令や修験道廃止令が出されて、急速にすたれたものの、その火を消すことは出来なかった。

戦後、それらの法律が解かれると共に、修験道は活気を取戻し、文献に残る七十五靡の行場や四十二宿の宿址などが復興しつつある。この七十五ヶ所の行場を巡拝するのは開祖、役ノ行者の徳を慕い、併せて山伏の修行の一つとされているが、これはすべてではなく、断食や滝行の他、数え切れない苦行を我が身に課すのが山伏行者の修行とされている。

私の知った範囲でも、四十日間大峯無双洞で断食と滝行をされた滋賀県甲西町の方が居るし、裸足で熊野から吉野へ険しい山道を踏破された方も居る(三重県大宮町)。又、ごく最近では玉置山から吉野まで五泊六日断食をしながら通された方(大阪府大阪狭山市)も現われた。又、数年前の冬九州高千穂峯に登った折、あの一帯の山を冬でも着衣の儘で夜を過すという字の如くの山伏の方にも出会ったことがあった。吉野より山上ヶ岳を千日間、雨の日も風の日も(冬を除く)通いつめる行者もいて、千日回峰行はこういうところから名付けられたのであろう。

私達「新宮山彦ぐるーぷ」は修験の団体ではない。{山を歩いて自然に親しみ、体験を通してモノを考えよう}とのテーマで昭和四十九年に発足、以来各種の行事を重ねて来た。

そのようなところへ、田辺市出身で、河内長野市在住の前田勇一さんという方と知合いになったのである。前田氏は大峯を歩く行者のすべてが、吉野から峯入りして、太古ノ辻より前鬼下ることに不審を抱き、要路にその疑問を問い正したのであった。明治以来の尾が引いて、南半分の道は薮に閉ざされ通行困難となっていること、ときたまこの閉ざされた道に踏み込む行者や登山者、そしてその団体もあったようだが、いずれも手ひどい目に遭って再度挑戦する人が無かったと知らされたのである。

前田氏はそこでこの南奥駈の道(太古ノ辻から熊野本宮)をよみがえらせ、日本古来の精神文明を見直そうと一念発起され、奥駈葉衣会なるものを発足させたのであった。

熊野に住んでいる我々として傍観することは出来ない。熊野の浮上の一役にもつながることとして積極的にこの会を支持したのであったが、大黒柱の前田勇一氏は十年来の病が次第に悪化し、遂に昭和五十六年五月八日、六十八才を以って不帰の客となってしまわれたのである。

前田氏は亡くなる一年半前、最後の闘志をかき立てて、東奔西走、孤軍奮闘の結果、持経宿山小屋を建設されたのであった。その後、病状が悪化して入院されたが、死の直前まで大峯奥駈道の再興に想いを馳せられていたのが、左掲の書簡で明らかである。

 

前田勇一氏の書簡

         五十五年十一月二十八日の書簡

 冠省  二週間ほど食事をしなかったので、七十一キロあった体重が六十五キロに減りました。食べたいのにたべれないのも辛いですね。修験道には有名な十界修行というのがありますが、その中で餓鬼修行というのは尤も辛いといいます。また、古屋の宿から玉置山までは、無言の行場とされています。

私はこれまで大峰に入っても、淡淡ととして歩くだけであったので、神さまから二つの苦行を強いられているようです。そうでも思わないと苦行は乗り切れんです。

 

         五十五年十二月十六日の書簡

冠省 入院生活も今回で四回目、慣れている様でも、各病院には夫々固有の体質があり、それに慣れるまで何となく違和感があります。(中略)

     御神体吹越山の大峯三ツ玉石の発掘

     大森山の捲道の改修

     「会報」の発行

などそれなりに重要な仕事を放っぱらかしての入院、気になります。本宮、十津川、下北山の人たちに会いましたら可能な限りご支援下さいと申し上げて下さい。

 

         五十五年十二月二十五日の書簡

拝啓、此処十日ほどというものは、治療上の事で色々主治医たちとの間でトラブルがありましたが、二、三日前からやっと軌道にのり、今は平穏です。よくごたごたする男です。而し治療するのは病院、体は私のものですから、体も病院の″物″との考えは通用しません。人間は何事かがあると、対する者とは戦わねばならない(争いとか、喧嘩という意味でなく)宿命を持っています。

十界修行とで申しますと、修羅行(抖そう)ですね。行の上では角力に当たります。 (中略) 肝心な事が後になりましたが、持経宿お正月のお飾りと申しましても毎年本宮大社より〆縄と御幣を送って頂き、それにお不動さま、金剛童子さま、水屋のお花、宿の奥座敷、最後にトイレと一般家庭でする様にお餅、ミカン、酒、タツクリ、コンブ、大根など海山で採れたものをお供えするだけです。(中略)

持経宿のイロリと記念樹を囲む赤レンガ、時間があったら築くよう言っているのですが、お目にかかったら指導してやって下さい。薪も少々拾わせる積りです。(後略)

 

○ 五十六年二月八日の書簡

一月十日頃でありましたか主治医たちに呼ばれ、″かなり強い薬を使ってみようか、と思っていますが、体の方はどうですか″と云うことであったので″大丈夫です、やって下さい″と返事しておいた。  第一回点滴「三日間」十二月十八日。第二回点滴「三日間」一月十三日。第三回点滴「三日間」一月十七日。

この療法が大変な難物。薬漬け、薬害などの語が生まれた原形であろうと思います。注射をはじめてから二週間は、生きた心地はしません。その苦しみは今も出羽三山の行場で行なわれているナンバンイブシの苦行に相当するでしょう。私はこうした苦しみを,全て″十界修業″の各項目の何れかに配当して、じっと堪えています。

大峯には登っていますが、まだ導師について修行もしていませんので、せめてこの機会に病魔を相手に苦行にいどんでいます。正月中旬までは見当つきませんでしたが、この分ではほんの徐々ですが、よくなっている様です。 (中略) 玉岡さんたち、平治宿に便所を造られると云うことですが、あそこは高貴な方がお籠りになられるので、チャプンと云うのは如何にも下々の音で失禮です。どうか便所だけでも雪隠になさるようにおすすめします。

これからまた夕方の注射です失禮します。(後略)

大阪市福島区阪大耳鼻科内にて

 

前田勇一さん亡きあとは、奥駈葉衣会は自然消滅となってしまった。持経宿山小屋の管理は我々「新宮山彦ぐるーぷ」が引継ぐこととなって、屋根のペンキ塗り、便所の汲み出し、薪の補給等を継続して来たのである。

この山小屋を活かすには、只管理だけでは不充分で、繁った道を刈拓くしかないと結論、昭和五十九年六月より千日刈峰行と銘打って、一泊二日の作業を始めたのであった。行者の千日回峰修行になぞらえて、果てしなく続くという意味を込め千日刈峰行としたのである。

足かけ三年、二十四回、延三一五日の出動で四十七名が二四キロメートル(全行程四五キロメートル)を刈り拓いたのである。それは晴れの日ばかりでなく、雨、風、暑熱、積雪とそのうえ、夏はブヨやダニに悩まされ、ウルシにかぶれる者や、時には刈払機不調に泣いたこともあった。

猛烈に繁った部分のスズタケや潅木帯では倒れ込んで来るこれらの束に、しばしば鋸の回転が止り、その排除に苦闘し、機械を振り回すのに腕もなえ、へとへとに疲労困ぱいしたものだった。 一方、どこからも資金援助がないところから、参加者は夫々弁当は勿論参加費を拠出して、鋸刃の購入や燃料代、そして泊りの食料代に充当して、並の奉仕活動ではなかなか出来ないことであった。原則的に一泊二日で実施したので、持経小屋泊りの他は行仙岳下のトンネル口や葛川トンネル口にテントを幾度となく設営したものである。

この刈峰の行程表すべて巻尺で測ったものであるから、太古ノ辻から本宮までの略々確実な距離を掴むことが出来たのも一つの収穫であった。

一巡目が終ったところで、記念の標柱を太古ノ辻に設定して、「これより南奥駈道」として人々の関心を南に向けることとした。この太い丸太を担ぎ上げるのもひと苦労であったが、以来、厳然と立って、吉野より奥駈を果したと考えて前鬼に下る大方の人々に、「これであなた方の奥駈は半ばをしたに過ぎないのですぞ」と示しているかのようである。

そして私達は本宮より刈拓いた道を二泊を重ねて三日間歩いて、三ヶ年の成果を確認して、満足したものである。

だが、この道は放っておけば又、元の薮道に戻ってしまう。

そこで四年目から二巡目の刈峰行に入ったのである。二巡目は昭和六十二年四月十八日から始めて、平成三年十二月までで、おおよそ終了したのであるが、その途中で、新たな課題に直面することとなった。それは、玉置山から持経宿山小屋までの間は二〇キロ、健脚者でも十二時間以上もかかるところから、これでは団体を連れては来られないと云う声が挙って、結局この中間に山小屋を建てねば、根本課題である南奥駈道の再興は出来ないという結論に達したのである。

玉置山と持経宿の中間で、物資の補給に最も良い地点として、佐田ノ辻と呼ばれている十津川村と下北山村との接点、昔、逓送の道として往環した峠が選ばれたのである。

さて、山小屋を新たに建設するとなれば、いろいろ要件を整えなければならない。

一、水場が近くで得られること。一、小屋を建てる敷地があるか。一、敷地を借用できるか。一、建設資金が充足出きるか。一、労力が提供(奉仕)されるか。一、建築を引受けてくれる棟梁がいるか。一、その他。と、

どれ一つが欠けても出来ないのである。はじめ私達は、老朽化した平治宿小屋を建て替えるつもりで資金の準備をしていたのであったが、果たしてこの大問題に一弱小団体である「新宮山彦ぐるーぷ」が取組めるものか大きな疑問であったが、千日刈峰行を熊野浮上に賭けた意気込みで乗り切ろうと、実行に踏み切ったのである。

 

一、水場の探索

第一日目は十津川側を這いずり回って徒労に終る、下北山村側に下りるもなし。

第二日目、今日水場が見付からなかったら、もはやこの地に山小屋を造ることは出来ないと、悲壮な気持ちにかられての入山となった。水場の発見にかけて、神仏への加護、特にこの近くの継ノ窟で修行した実利(じつかが)行者の霊力にすがるような気持で、小屋が出来た暁には役ノ行者と共に実利行者を祀ろうと決意したのであった。

実利行者というのは、天保十四年(一八四三)岐阜県坂下村に生れ、林喜代八と言った。実利の称号は、役ノ行者に次ぐ霊験者として有栖川宮より授与されたもので、明治政府の修験道廃止令にもかかわらず、大台、笙の窟や継ノ窟など各地に籠って行を積み、村人に加持祈祷を施して多くの信者があったという。

明治十六年六月には行仙岳の北側に怒田(ぬた)ノ宿を再興したが、これには浦向からの道開きから、道具寄せ、木挽、大工仕事など三十一日間に渡り、労賃三十四円八十四銭六厘を支払ったと記録されている。つづいてこの宿所を足場にして、延二二一人、労賃一日当り三十五円に達したとある。現在と違って、この時代の道普請や家の建造は並大抵のことではなかったであろう。実利行者はこの南奥駈の道を大法道路と位置づけている。

私はこの偉大な宗教人、実利行者や前田勇一氏の遺志顕現のためにも、これから行おうとする事業に対して加護を祈る気持であつた。幸い、ふとしたひらめきから降りた枝谷に水場を発見することが出来たのである。それは降雨時には滝状となる基部に水が潜って溜まっていたのである。奇跡として受けとめ、山小屋の建設が決定的となり、行者を祀ることを決めたのであった。

 

二、敷地の選定と借地交渉

そもそも建てられる山小屋は公共の施設であって一山彦のものではない為、完成の暁には下北山村に寄付するつもりで、借地交渉は一切下北山村役場に一任し委任し、借地主は村として頂き、そこへ山彦が建てさせて頂くという形となる。尾根を境に西側は十津川村有地で、その承諾は直ちになされたが、東側は当初考えられていた下北山村の民有地ではなく、紀州造林株式会社所有地ということから難航して、役場だけに任せておけず、その手続のあり方に対して村長に再考を促し、一方、紀州造林社長にも直接嘆願するやらして、漸く承諾に漕ぎつけることが出来たのであった。その上、この両者が夫々奈良営林署と森林開発公団に造林を委託しているところから、夫々の承諾と分離契約や、はては保安林解除という、我々にとっては難解な問題があったが、これらすべて下北山村役場の山本静夫、勝平芳明両氏の手を煩わして処理して頂いた

 

三、資金集めの同席

当初、平治小屋の建て替えを目標に凡そ二百万円を積み上げていた。それが行仙宿山小屋(佐田ノ辻)建設に計画変更となって、予算見積額一千二百万円とふくれ上がり、改めて褌をしめ直す気持で募金活動に奔走することとなった。一口一万円以上を原則として、山彦資金並に山彦の仲間から四百万円、熊野修験復興をこの山小屋に賭けて高木亮英氏が二百万、新宮・那智勝浦を中心に二百万円、計八百万円が集まったところで、修験教団の本山であるところの大津市三井寺(園城寺)、京都市聖護院、吉野・金峯山寺、大峯山寺各護持院を歴訪、勧請の結果一挙に四百万円を頂戴することが出来て、一応の目標に到達したのであつた。

 

四、敷地造成工事労力の問題

水場が確保され、借地契約が成立し、資金的にも明るい見通しが立つに至って、愈々工事に着手することとなった。下北山村の池神社の下高宮司を祭主に地鎮祭を執行して頂く。池神社は役ノ行者の開基とのことで、我々一同は縁もゆかりもあることに喜んだものだった。

なにしろ山の上で機械力は何一つなく、すべて手作業、しかも全員が素人ばかり、そして往復に時間を費やして、実際に作業出来る時間は僅かという重なるハンディがあった。

先ず地表の雑木や檜(五〇年生)を伐って、根っ子の掘り起しから始める。この掘り起しは松葉自動車工業で借りたチェンブロックが偉力を発揮して、大きな根株が掘り出される度に歓声が上る。

次の段階は岩を砕き削る工事であるが、片手に玄能をふるい、いま一方の手に石ノミをあてがって岩の目を探し出し、出来る丈け大きい塊を掘り出すことに腐心する。この作業は中々大変で馴れぬ労働に加えて、堅い岩盤と作業は遅々としか進捗しなかった。 仲間の方々は、大きい重い玄能や大ハンマーを提供して下さったり、毎週土、日曜日には入れ替り立ち替り、男女を問わず積極的に取り組んでくれた上、遠くは京都、大阪、神戸、田辺方面からも馳せ参じて協力してくれたものであった。こうして平成元年九月からはじめた造成工事は翌二年四月にやっと出来上がったのである。

 

五、荷揚げ

この山の上で建築工事を引受けてくれる棟梁は果たして居るだろうか。その当時の好況からして、わざわざ山の中でせずともいくらでも請負仕事があり、難しい問題であつた。

串本町大島出身の大工、木下嘉彦氏が山とも我々とも縁があって引受けてくれたのは地獄に仏であった。

彼はこの仕事に全精力を傾注するかのように、竣工までは顎鬚は剃るまいと一種の願をかけて臨んでくれたようである。

山では我々が一生懸命に敷地造成に取り組んでいる間、一人黙々と木を刻んでくれていたのである。材料選び等は一切棟梁任せで、只、床板を厚くすることだけ注文をつけた。

材料一切を営林署集積場(白谷側)に集めて、中日本航空のヘリコプターで空輸を依頼したのであったが、中々日取りが決まらず、こちらをヤキモキさせたものである。このヘリの交渉も最初は他の会社に交渉していたのが土壇場になって断ってきたりして、こちらを途方に暮れさせることもあったが、吉野・喜蔵院住職の中井教善氏の仲介で、中日本航空と決まって安堵の胸をなぜおろしたのである。

愈々五月一、二の両日と決り、こちらのメンバーもギリギリ対応出来るところにはなったものの、一日でも天候等でずれたならば、出て頂ける人数が大幅に狂って、荷揚は不可能となる懸念が大であった。

幸いどうにか天候に恵まれて、変更なく空輸が実施されたのであった。二日間に渡っての空輸は九三便、五七屯に上って、基地に配置についた方々、佐田ノ辻、平治小屋の両受入側とも息をもつかせぬ、上って来る荷を捌き、移送する作業は、まるで戦場そのものであった。参加者のおひとり堺市の林谷諦心氏は「玉岡さん、今日はZ旗を掲げないといけませへんぜ」と言われたのももっともで、この荷揚げ成功か否かは、山小屋成るか否かの瀬戸際そのものであったのである。事故なく最後の便が去って行くのに手を振って感謝の意を表し、参加して頂いた皆と握手を交すうち、涙が溢れ、胸がつまって来るのをこらえることが出来なかった。

 

六、建築工事

こうして、すべての材料が山の建設現場へ上るや、連日の如く基礎工事が始められた。稜線上であるため、風か強く且つ霜柱で持ち上げられ、狂いが生じないよう、しっかりとした基礎を作られねばならない。

棟梁木下氏や左官職中道氏の泊まり込み作業が続く、その泊り場は先ずお堂を建て、それを当てることから始まった。造成工事のときはテントを張りっ放しで、数人が寝泊りしたのであるが、そのテントを撤収して、その位置にお堂を建てることとした。

仲間が交替で泊り、炊事につき合いをしたのであつたが、段々と工事が進むにつれて、棟梁一人にする夜も度々であった。

建前は最初の三日間で大体の骨組をやり四日目はその仕上げとなった。なにしろ一本一八〇キロもある梁や桁を、すべて数人の人間が肩にのせ持ち上げて連結するのであるから、まかり間違えば大怪我のもと、肝をつぶしながらの作業であつた。

建前が終るや窓の取付け、壁板を張り、床板を打ちつけるなど、素人の出る幕はなく、専ら応急的に敷地の回りを土のうで積んだり、イロリの型枠を作ってコンクリートを打ち込んだりして、平成二年六月末日を以って漸く竣工の運びとなったのである。

地鎮祭以来十ヶ月、大工、左官、ブリキ職を除いて、この工事に奉仕して頂いた、

山彦の仲間   六〇名、延七〇〇日。

以外の協力者  六九名 延一二〇日。

合計     一二九名 延八二〇日

で竣工に至ったのである。

翌、七月一日には聖護院の山伏二十二名の方々が折柄の風雨を衝いて、行者像(役ノ行者と実利行者)の開眼法要、山小屋落慶を祝って採灯大護摩供を奉修して下さったのである。

この記念すべき行事には、大峯南奥駈の再興を果たせぬままに世を去られた前田勇一氏に代って御子息の耕之輔、悦子夫妻にも参列をお願いし、熊野修験復興を夢みた那智山青岸渡寺の故高木亮孝大僧正に代ってその御子息、副住職の高木亮英氏も山伏姿で参列して下さったのである。

多勢の方々の期待を担って出来上がった行仙宿山小屋は、収容人員五十名の可成り大きなもので、がっしりした骨組に皆一様に驚嘆の声を上げられていた。これから管理を充分していけば百年の長きに渡って、多くの人々に利用されることであろう。

この地に山小屋が出来たことで、南奥駈の道は再興できたといって過言ではない。

前田勇一氏も志半ばにしてこの世去られたが、その遺志は顕現されたと考えている。そして明治の最後の捨身行者実利も、再びよみがえった大峯大法道路に満足されていることであろう。

中世熊野が多くの人々を迎えて、熊野信仰で栄えた折は、主として中辺路の道を往還したものであるが、この大峯は吉野から熊野への直結路としてそれ以前から拓かれていたことを改めて見直したい。

更に遡れば、若し神武東征があったとしたならば、神武の軍勢はこの大峯を通って北上したもの推定される。交通の発達した現今と異なって、昔の往還路は尾根であり、峠越えであったのである。

役ノ行者は神変不可思議の通力を持って、熊野―吉野を踏破したと伝えられているが、現在に於いても僅か二日間本宮より吉野を踏破した方も居ることからして、この大峯は昔語りの道ではないのである。

「新宮山彦ぐるーぷ」が始め今尚続けている千日刈峰行は、持経宿山小屋の管理の引継ぎ、平治宿山小屋の建替(平成三年)、行仙宿山小屋の新設へと発展して来た。

平成四年の今年は随分と多くの入峯者(熊野修験=青岸渡寺・大日会・吉野竹林院、三井寺・信貴山・東南院・聖護院・金峯山寺等)、登山者並びに団体、更に学校関係の体験学習会等に利用され、増加の傾向をみているのは喜ばしい。我々「新宮山彦ぐるーぷ」の希い、熊野の浮上に役立てれば幸いである。

尚、行仙宿並びに平治宿両山小屋に要した資金は当初の見積額一、二〇〇万円をはるかにオーバーして、二、〇〇〇万円にも達したのである。だが、この事業に賛同された方々の援助に依り、すべて寄付金でまかなわれたのであつた。

 

注;この文章は「熊野誌 38号 (一九九二年十二月二十日刊)」に

玉岡憲明さんが投稿され掲載されたものである。

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