千日刈峰行と山小屋建設

 

会の創立

1974年(S49年)「山を歩いて自然に親しみ、体験を通してモノを考えよう」との趣旨のとして活動を始める。

明治元年の「神仏分離」、明治5年の「修験道廃止令」により、奥駈修行が途絶え、明治中期に奥駈修行が再会されても、吉野から前鬼に下ることが一般的であった。

奥駈葉衣会の前田勇一さんは、「さびれた南奥駈の道をよみがえらせ、日本古来の精神文明を見直そう」の趣旨で創設され、新宮山彦グループとして傍観できず、行事に参画した。

喉頭がんの病に侵されていたが、1979年(S54年8月)持経の宿小屋を建設、その一年半後に68才で亡くなられ、葉衣会が自然解散した。前田翁の遺志を継承しようと決意、南奥駈道再興活動に新宮山彦Gが立ち上がった1984年(S59年)。


千日刈峰行

 
それは薮で覆われた南奥駈の峰筋の刈り拓きである。行者の千日回峰行になぞらえて私達は千日刈峰行と銘打って、第1回刈峰行が1984年(S59年6/9~10)行われた。

道の刈拓きは、大勢の人達に歩いて貰うためのもので、これは利他行であると共に、自分自身の行として取組もうと仲間に呼びかけた。手持資金も無く外部からの援助もなくて、その都度参加費を出しての珍しいボランティアで、誰一人不満の声は出なかった。

太古の辻から熊野本宮までの距離は45qで、その内刈拓き部分24qを3ヵ年、47名で24回、延べ315日で閉ざされた道が拓かれたのである。

身の丈2mを越すスズタケ帯は、道幅5mに刈らねば、手前に倒れこんで来るので、鋸の回転が止まり、暑い夏は風が通らず汗と埃にまみれ、まつわりつく蚋に悩まされ、また雨の日が多く冬は浅い雪を踏んで、殆んどテント泊りを重ねて完通したのである。最も苦労したのは、涅槃岳から阿須迦利岳、倶利伽羅岳から行仙岳の間であつた。

一巡目が終わった頃には、はや次の芽が一斉に生い茂って来ており、竹の繁殖の旺盛に辟易させられながら、2巡目は2ヵ年、40名、延べ174日で刈拓いた。

3巡目を終える頃には、竹も根負けして根が枯れ、繁りは鈍化した。でも台風あとには百余年のモミ、トガ、ブナの巨木が倒れて道をふさぎ、倒木との闘いが毎年のように繰り返されて来た。


行仙小屋建設


2巡目が終わって第1回熊野修験参加者の別府の山口念誦師から「道が良くなったが玉置神社から持経の宿までは、遠すぎて新客は連れてこられない」と指摘された。中間に山小屋を建てるという大課題が立ちはだかったのであった。弱小団体の山彦Gに山小屋を建てる事は可能であろうかと。折角5ヵ年をかけて道を拓いたのに利用されないとなれば元の木阿弥で、無駄骨に終わる。と考えるとやらねばならぬ。幸い山道でなく大峰修験の道復興という旗印があり、5ヵ年にわたった刈峰行の実績がある。

その問題点は、@資金を集められるか(当初予算1,200万、完成時1,800万)。

A水場が近くにある。B敷地の借用と造成。C建築を引受けてくれる棟梁の確保。Dヘリコプターでの荷揚げ。等々その一つを欠けても不可能なのだ。

資金の方は、前年の春から夏にかけてアルミ空き缶回収運動を展開し、1口1万円以上の募金で貯めた(地元浄財800万)後、三井寺・聖護院・大峯山寺・金峰山寺といった修験寺院に寄付お願いした。公共の避難小屋を建設するという大義名分と刈峰行の実績が評価されてどうにか達成された。

水場は、きわめて不便かつ険阻な所で発見されたが、三度にわたる改修で安心して往来出来るようになり、水の価値認識に効果を挙げる事となった。

敷地の方は、吉野国立公園内での小屋建築であり、塩川正十郎先生(先生の地区有力後援者が前田勇一さんの縁)の口添えもあり、速やかに認可された。借地の借用は、下北山村と地主の交渉でお願いしたが、中々難航して村長と製紙会社社長に要請談判をして解決したものの、その造成はすべて手作業であったため、硬い岩盤掘削が遅々として進まず、止む無く設計変更で、奥行を2m縮め、その上奥側約4mの床を高くした。そのため50人収容予定が40人になった。

平成1〜2年はバブル経済の時代で、わざわざ山中に出張って山小屋を建てようという大工は皆無でしたが、私達と縁故のあった木下棟梁が理解して引受けてくれたものである。仲間が敷地作りに汗を流していた頃、黙々と一大木を彫り、鉋をかけて用材作りをしてくれていたのです。

H1年9月からH2年4月にかけて漸く敷地が造成され、用材も仕上がったところで、砂・バラス等の建築資材と共に大量の荷物がヘリポートに集められ、ヘリコプターによる荷上げとなった。

その頃のエピソードと言えば、ヘリ進入コース上の立木を無断伐採したことで、持主から電話がかかり青くなったことがあり、契約破棄かと思いつつ参上し苦しい答弁をしたものです。あるいはヘリの会社から直前になって断られ、一時塩川先生に要請しようかと考えたこともありました。幸い大峰山上ヶ岳の修復工事に中日本航空機を使ったという、吉野の喜蔵院住職(中井教善師)に頼んでもらって契約が成立しました。

ヘリの飛行は天候に左右されますが、ボランティアの方は日程に拘束されて1日でも延期となればどうなるか分からないという極限状態にも陥りました。幸いどうにか飛行可能となり強行してもらい事なきを得ました。2日間、93便57トンの荷物が無事無事故で揚げられましたが、まさに戦場そのものでした。

ところが全部の重量を測って契約書を交わし、60万円のサービスをしてもらい370万円の契約高となっていたのですが、重量オーパーで70万円不足と言われ、これには閉口しました。  1口1万円の募金でコツコツ貯めた資金ですからゆとりがありません。金が無い、荷物は揚げられている。「何とか負けて欲しい」の一点張りでは芸がありません。荷姿をよく見るとワイヤーで出来たモッコがかさんでいるからで、こちらは材木類を揚げて欲しいのでモッコの重量は考えられないと切り返しました。材木類は丈夫な帯にすべきだと反論したのです。結局、ヘリ会社社長の裁量で契約通りにしておこうという事になりました。ボランティア団体が公共の避難小屋を建てることを評価されたからです。

その後は、昼夜兼行の基礎工事・建前工事で6月末に竣工し、聖護院山伏その他の方々が大雨の中、採灯大護摩供を奉修して下さって無事落慶となりました1990年(H2年)年6月。その間大工・左官・飯金職・支援する仲間数人が泊まり込みです。延べ985日。周辺整備に714日にもなりました。

 建物が出来ればそれで良しということにはなりません。敷地周りは土嚢で仮積みしているので、コンクリートで固めながら石積みを行い、次いで犬走りの舗装。これをしなければ擁壁は水力で押し出されます。水場からの道の改修も続けました。3度目(H10〜H11年)にして現在のしっかりした道になりました。さらに四の川林道が延長されたのを見て、より近い補給路を開設しこれも2度3度改修しました。この間セメント・砂・バラス・石・鉄筋・パイプ・丸太・階段材などは、殆んど担ぎ上げたものです。

 

行者堂;役の行者、実利行者を祀る。小屋と一緒に完成。

管理棟;2003年(H15年)に完成。

「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録;2004年(H16年)

シチズン賞受賞;2004年秋。

 

[注]
玉岡憲明氏が宗教雑誌「禅と念仏」寄稿手記とJAC京都支部と広島支部交流会(行仙宿)の講話を基に作成 (川島・記)  

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